キース・ウォーナー演出による『ニーベルングの指環』4部作第2日、『ジークフリート』世界初演に先立ち、去る2月26日、指揮者の準・メルクル氏の特別講演会が、日本ワーグナー協会と新国立劇場の共催により、新国立劇場オペラ劇場ホワイエで開催されました。メルクル氏は、ストーリーと音楽の両面から作品を丁寧に解説し、話は4部作全体に及びました。司会進行及び通訳を務めたのは山崎太郎東京工業大学助教授。同公演Bキャストで夫々ミーメ、アルベリヒ、「さすらい人」を演じるウーヴェ・アイケッター、島村武男、ドニー・レイ・アルバートの3氏が顔を揃え、田島亘祥氏のピアノ伴奏で熱唱するという豪華版で、ワーグナー協会と新国立劇場友の会の会員を中心に集まった約200名は、2時間の講演に熱心に耳を傾けました。
『ジークフリート』は、少年ジークフリートの成長と冒険という単純なストーリーに複雑な背景が絡み、親しみやすい反面、謎の多い作品となっています。はっきりした輪郭を持つ『ラインの黄金』の開始部に対して、『ジークフリート』第1幕への前奏曲では、構造のはっきりした「ニーベルング族の動機」が出てくるまで150小節、曖昧模糊とした不思議な音楽が続きます。まさに無からのスタートです。その中から次第に聞こえてくるのは、「ミーメの問いかけ」、「大蛇」、「ニーベルング族」の3つの示動動機。実はこの3つが、物語の謎解きをすることになります。ワーグナーは謎解きの形式として、時代背景に制約されない「メルヘン(おとぎばなし)」を選びました。
ヴォータンという名を捨てて世界をさまよい続ける「さすらい人」、昼夜の境や季節に縛られない世界で行動するジークフリート、眠り続けるブリュンヒルデとエルダ。大蛇や小鳥が語る『ジークフリート』では、時間の観念が薄れ、現実と超自然の境目がなくなっていきます。
ワーグナーは、オペラ改革を断行し、大きくドラマティックなオペラ形式を生み出したことで知られますが、『ジークフリート』では作品のメルヘン的性格を強めるため、構造の単純なリートの形式を意識的に使っています。ここで、今回のミーメ役で日本デビューを飾るウーヴェ・アイケッター氏が登場し、リート形式の代表例である「養育の歌」を熱唱しました。 メルクル氏から『ラインの黄金』と『ジークフリート』でのミーメの違いについて質問されたアイケッター氏(左)は、「ワーグナーは『ジークフリート』のミーメに大きな要求をしています。第1幕では、90分間出ずっぱりの間、緊張を保ちながら言葉を歌って聞かせることで、身体、声、共に、大きな負担がかかります。私が心がけているのは、『ラインの黄金』のミーメからの変化、成長、世界制覇の力をもたらす宝への強い執着を観客に印象付けることです。ミーメの内部の葛藤と外部との問題は肥大化していき、その結果2幕では狂気に陥ります。この変化を示すことに興味を感じます。」との意見を披露しました。
偉大な感覚と美を表現するワーグナー音楽ですが、見過ごされがちな側面として、狂気をはらんだ音楽も作品の中に書き込まれていることがあります。例えば、アルベリヒとミーメは、兄弟でありながら互いに敵意を抱いています。この2人を表現する音楽は形がゆがんでいて、息が短く、滑稽な面も持っています。第2幕に出てくる兄弟対決の場面で歌われる通称「騎士達の二重唱」は、作品中で1番狂気をはらんだ音楽と言えます。 ミーメ役のアイケッター氏と、『ラインの黄金』に続いてのアルベリヒ役となる島村武男氏が登場し、兄弟の争いを展開して観客を大いにわかせました。
この作品におけるアルベリヒについて、島村氏は、「『ラインの黄金』のアルベリヒは力をつけていて、欲望の象徴と言えます。一方、『ジークフリート』では、『黄金』から25年間、男性をなくして傷ついた状態でありながら、常に欲望に囚われています。力を失ってしまったのに、それでも欲望で生きている、欲望の塊と化した哀しい人間像を象徴していると思います、」と語りました。
さて、『ニーベルングの指環』の作曲にあたり、ワーグナーは『ラインの黄金』と『ワルキューレ』を完成させ、『ジークフリート』の第2幕を書き終えたところで、12年間ペンをおきました。その間に完成させた『トリスタンとイゾルデ』と『ニュールンベルグのマイスタージンガー』によって得た音楽語法の成長と円熟は、『ジークフリート』第3幕の音楽に顕著に現れています。
第3幕への前奏曲は、ワーグナー音楽の中で最もスケールの大きな音楽であり、曖昧模糊とした第1幕前奏曲と見事なコントラストをなしています。オーケストラからは可能な限りの音色が要求され、演奏にも大きなエネルギーが必要です。ここでは、世界をさまよって色々なことを試みる「さすらい人」の不安に駆られた状態が、5つの音の層によって表現されます。「不安・憂いの動機」、「ワルキューレの騎行の動機」、柱のように埋め込まれる大きな和音、「宿命の動機」、「ヴォータンの契約の動機」が重なり合い、離れあい、時として一時に盛大に鳴ります。「さすらい人」は問いかけをするため、世界中を駆け回ってエルダを探しているのです。
その「さすらい人」の問いかけですが、物語全体にどんな影響を与えるのでしょうか?『ワルキューレ』では、ヴォータンが影響を与えようとした物事がことごとく失敗し、ジークムントの無残な死、ジークリンデとブリュンヒルデの追放という大きな破局で作品が終わります。契約の力で世界の主となりながら、その契約に縛られて、好きなように行動できなくなったヴォータンは、神を引退せざるを得なくなるのです。
『ワルキューレ』でヴォータンは、ジークムントを英雄に仕立てて目的を達成しようと目論みますが失敗し、新たな英雄を捜し求めます。自分で自分のことを行う英雄。神々の意思と無関係で、神々がしようとすることに抗って独自に行動しながら、結果的にはヴォータンの望むことを実現する英雄です。しかし、その実現のためには何が必要か、ヴォータンが直接相手に告げることはできないのです。「さすらい人」となったヴォータンは、ミーメを通じてジークフリートに影響を与えようとしますが、ミーメにもストレートに意志を告げることはできません。そこで選ばれたのが、謎かけという手段です。「さすらい人」はミーメから、1番必要とされている正しい質問を引き出し、その答として、宝の得方を教えようとするのです。ここで、ミーメ役のアイケッター氏と、「さすらい人」を演じるドニー・レイ・アルバート氏が登場し、第1幕のヴォータンとミーメの謎かけの部分が歌われました。
ヴォータンと「さすらい人」の違いについて、アルバート氏は、「私にとって、『黄金』から『ジークフリート』までの3作品に登場するヴォータンの連続性、流れを追うことが重要です。『ラインの黄金』のヴォータンは、知性が高くてたくさんの取引をし、『ワルキューレ』では、それらの取引で犯した間違いを修正しようとします。『ジークフリート』の「さすらい人」は成熟しています。音楽的に言うと、『ワルキューレ』のヴォータンには『黄金』より更に低い音域が要求され、バスバリトンに適した役柄となっています。一方、『ジークフリート』では音域がやや高くなっているので、バリトンの私にはこの作品の方が歌いやすいです、」と説明しました。
さて、『ジークフリート』で「さすらい人」は、ミーメにかけたトリックによって目的を達成します。ところが、『神々の黄昏』の最後で、自分の間接的影響によって失敗をこうむることになるのです。ジークフリートは、ミーメの洞窟から世界に飛び出していきますが、死という悲惨な結末を迎えます。『黄昏』まで含めて、ヴォータンが直接的・間接的に影響を与えて行おうとしたことは、全て結果的に破綻してしまいます。ヴォータンの作戦の中で駒のように動かされる登場人物は、全員が、最終的に死を迎えたり、行方不明になったりして悲惨な結末を迎えます。
ところが、1人だけ、ヴォータンの作戦に入って来ない人物が予想外の行動をとることによって、希望が芽生えるのです。愛娘のブリュンヒルデです。ヴォータンの行動によって自然は崩壊し始めるのですが、これを元の形に戻すことで世界の融和がもたらされるわけです。とは言え、そのために支払われる代償は大きく、ブリュンヒルデは自らを犠牲にし、文明も崩壊してしまいます。ジークフリートは、『ジークフリート』の最後で、自身とブリュンヒルデを解放しますが、2人共、『神々の黄昏』で没落を迎えなければなりません。しかしながら、没落の後には新たな始まりがあるのです。