マエストロ ペーター・シュナイダー特別講演会 「ワーグナー、そしてオペラを語る」

2007年6月16日於:東京芸術劇場大会議室

schneider新国立劇場『ばらの騎士』指揮のために来日中ペーター・シュナイダー氏を東京芸術劇場大会議室にお迎えして、去る6月16日、日本ワーグナー協会第279回例会が開催されました。マエストロ・シュナイダーと言えば、ワーグナー、シュトラウスを中心とするドイツ・オペラの第一人者として、バイロイト音楽祭を始め、世界各地で長年にわたって活躍され、高い評価を受けておいでです。そのマエストロの肉声を聞き、直接質問できる稀有なチャンスとあって、会場には協会員を始め、多くの参加者が意気込んで集まりました。

話題は、マエストロの音楽的背景や指揮哲学から、近年の演出傾向、歌手育成、劇場運営、バイロイト祝祭劇場特有の問題についての考察まで、多岐にわたりました。一つ一つの質問に丁寧かつ率直に回答されるマエストロのお話に、参加者は皆引き込まれ、和気あいあいとした雰囲気の中、予定時間を大幅にオーバーする集まりとなりました。

音楽評論家の舩木篤也氏の司会でスタートした例会は、「いつもは、聴衆のみなさんに背中を見せる形での仕事ですので、このように向き合ってお話できるのは大変うれしい。講演ではなくインタビュー形式で、」というマエストロのご希望に沿い、久保敦彦神奈川大学教授が司会・通訳役を務め、会場からの質問も適宜取りいれる形で進められました。以下はその概要です。

日本ワーグナー協会創立10周年記念、1990年の日生劇場『トリスタンとイゾルデ』公演:

久保:マエストロは、ワーグナー協会創立10周年を記念して、1990年に日生劇場で上演された『トリスタンとイゾルデ』を指揮されました。ここにその公演のポスターがありますが、当時のことを覚えておいでですか?また、特に記憶に残っていることはありますか?

rwg-tristanペーター・シュナイダー(以下文中P.S.):このポスターは覚えていますよ。この公演に出演した歌手とは、その後色々な場所で一緒に仕事をしています。一例をあげると、イゾルデを唄ったガブリエレ・シュナウトと、数カ月前に『トリスタンとイゾルデ』で共演したばかりです。それから、トリスタン役のヴォルフガング・ファスラーは、この公演の数年後に自動車事故で亡くなりました。直前に、ウィーンでトリスタンを唄うことが決まり、張り切っていた矢先の不幸な事故でした。また、ベルリンで『トリスタンとイゾルデ』を上演した際に、オーケストラのイングリッシュ・ホルン奏者から、「マエストロとは日本でご一緒しましたね、」と声をかけられたことがあります。1990年の公演には、バイロイト音楽祭等のオーケストラから色々なパートの奏者が参加してくれ、彼もその中にいたわけです。そして、ベルリンでの公演が、定年を迎える彼にとって最後の演奏になる、と打ち明けられました。そのように、東京での公演が、色々な形で自分の中に生きてきたと思っています。
オーケストラは色々な団体から抜粋された奏者で構成され、N響の方も多かったと思います。補強という言い方はしたくありませんが、重要なパートには、バイロイト音楽祭等の経験者が配されていました。ピットの関係から、奥行きが浅く、横に大きく広がった場所で演奏したことも印象に残っています。オペラ経験は余り豊富でない人が大多数でしたが、経験の程度にかかわらず、一緒にこの公演をやるということに喜びを持って全員が熱心に準備し、公演にこぎつけたことが何よりも印象深いです。 残念ながら、1990年の『トリスタンとイゾルデ』が、どのような演出、舞台であったかについては記憶が定かでありません。具体的なことは覚えていませんが、少なくとも、作品と衝突するような舞台・演出でなかったことだけは確かです。このように申し上げるのは、その後色々な『トリスタンとイゾルデ』があり、その中には作品と衝突するような演出も多かったので、1990年の演出がそうでなかったことを記憶しているわけです。

1950年代から現在までに歌劇場で起こった変化:

久保:マエストロは1950年代から40‾50年にわたって歌劇場での生活を続けて来られたわけですが、その間に起こった変化について、音楽面、演出面、行政面、財政面等について、プラス面でもマイナス面でも、何かお話いただけますか?

<演出面での変化>:

P.S.:私が1番深刻な問題と感じているのは演出と演出のスタイルです。これが極端に変化してきていて、今日では、多くの演出家が「作品の解釈」という言葉を拡大してとらえています。あたかも、作品を演出するというよりも、作品の内容を加工するのが演出であり、演出はそうあるべきとの観念にとらわれているように思えます。
ワーグナー、シュトラウス、モーツァルトの作品をとりあげると、作曲家が場面について色々な指定をしていて、その指定は音楽と密接・不可分の関係にあります。音と場面の指示の間には相互作用があり、場面についての作曲家の指示は、音楽に直接反映されているという性質のものです。昨今の演出家がとらえているような、「音楽はその場の雰囲気を醸し出す背景」という位置づけでは決してないのです。大切なのは、作曲家の指示から音楽面でもインスピレーションを得ることで、これが音楽との相互の相乗効果に結びついてくるのです。その点をなおざりにするのには、指揮者の立場として当然のことですが、極めて大きな疑問を感じざるを得ません。また、そのために、指揮者としての仕事が非常にやりにくくなっているということを指摘したいと思います。

<音楽面での変化>:

音楽面での変化については、完成度が非常に高まったこと、また、オペラの原語上演が増えたことが大きいでしょう。特に、技術的完成度の向上は大きな変化であり、進歩であると言えます。もっとも、作品については、新作は余り上演されず、古典ジャンル作品の上演が中心であり続けていますが・・・
以前、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の上演と言えば、音楽面から、オーケストラにとって大仕事でした。実際に、19世紀末とそれ以降のウィーンでは、『トリスタンとイゾルデ』上演に向けてオーケストラが30回以上繰り返して練習したあげく、演奏不能ということで上演を断念することがありました。しかし今日では、『トリスタンとイゾルデ』は日常的に上演され、特別なことではないというレベルに達していると言って良いでしょう。
リヒャルト・シュトラウスが、インスブルックで『ばらの騎士』を自ら指揮して上演したことがあります。「なぜインスブルックなどで上演するのですか?」と問われたシュトラウスは、「初演は1911年にドレスデンで行いましたが、その時のドレスデンのオーケストラよりも、現在のインスブルックのオーケストラの方が、作品をずっと良く理解して演奏できるようになっているためです、」と答えたというエピソードが伝わっています。『トリスタンとイゾルデ』にせよ、シュトラウス作品にせよ、上演が困難とされる作品についても、今日では演じる側の音楽的完成度が高まり、どこでも公演が出来るのは、大変印象的なことだと思います。

<運営面での変化>:

行政、劇場の運営での変化について、答は簡単です。以前は何かを上演する、特に大作を上演するとなれば、劇場がそれに全力を傾け、コストについては余りあれこれ言われませんでした。今はと言うと、どこに行っても「倹約、節約!」ばかりです。

昨今のオペラ演出:

会場からの質問:現代の演出傾向についてですが、シュナイダーさんは色々な演出で共同作業をされておいでで、実際にご自身の作品観と演出家の作品観が異なる場面に多く遭遇されていらっしゃると思います。その場合、演出家ととことん話し合って妥協点をみつけるのか、また、どうしても納得できない場合があるのかをお聞かせください。

P.S.:ネガティブな例を二つ紹介しましょう。最初の例はミュンヘンの『パルジファル』でのことです。一般的に、新演出に先立っては打合せがあり、普通このような打合せはポジティブな結果につながります。ただ、打合せの段階で演出家からコンセプトの説明があった時には悪くなく思えても、実際に装置が完成し、歌手が衣装をつけ、照明が決まり、舞台に載せられた時にどうなるかは様々です。
ミュンヘンの『パルジファル』の場合、演出家のペーター・コンヴィチュニーからの説明は次のような物でした。「聖杯の騎士に女性の守護者を出したい。それはとりもなおさずクンドリーである。そのクンドリーをイコン(聖画)のイメージで出したいが、その聖画の像が誰であるかは直接的に示さず、ぼかしておく。」
上演の4日前になり、装置等が全部揃って、実際に舞台に出て来ました。聖杯開帳の部分は、木の幹をあけて中を見せるという設定で、するとその中にクンドリーがいる、ということなのです。ところが、具体性を持たないはずのその像は、聖母マリアそのものでした。(*編集補足:1995年ミュンヘン・オペラ祝祭公演で初演されたコンヴィチュニー演出の『パルジファル』では、第1幕の聖盃開帳の場面で、天井まで届くほどの巨木の幹が観音開きの祭壇のように開くと、中から純白の衣装に身を包み、平和の鳩を手にしたクンドリーが現れます。コンヴィチュニーは、聖盃=女性、クンドリー=聖母と位置づけたとされています。)
これは、キリスト教、特にカトリックの観点から言うと正面きっての冒涜に他ならず、私は驚愕してその晩寝付けませんでした。一晩寝ずに色々考え、もうやめてしまおうかとも思いました。ただ、そうすることは、これまで何週間にもわたって私と練習を重ねてきた歌手達にとって、フェアでないのではないか、と考えました。私が降板したところで、他の誰かが指揮し、初日の幕は結局上がることになります。そのような事情で、結局指揮はしたのですが、大変真剣に悩んだ経験として記憶しています。
もう一つは『アラベラ』でのことです。ホフマンスタールとシュトラウスは、共に、大変経験豊かな演劇人です。そのような人達が共同で作り上げた作品について、どうしても意に沿わない演出になっていると感じたので、直接演出家に「それはおかしいのではないか?」と言いました。すると、演出家は何と答えたと思いますか?「ホフマンスタールにしてもシュトラウスにしても、そもそも作品が上演されるだけで喜んで良いのではないか?」と言ったのです。

バイロイト音楽祭で物議をかもしたクリストフ・マルターラ演出の『トリスタンとイゾルデ』:

会場からの質問:昨年のバイロイト音楽祭の際に、マエストロの指揮で、クリストフ・マルターラ演出の『トリスタンとイゾルデ』を観ましたが、昨年ベストの上演だったと思います。初演の2005年に、マルターラと指揮者(*編集補足:2005年の指揮者は大植英次氏)は同演出で大変なブーイングを浴びましたが、この演目について、マエストロがどのくらい提案や話し合いをされたかをお聞かせください。

P.S.:まず2005年についてお話します。この年の公演で指揮は担当しませんでしたが、ゲネプロには同席しました。個人的には、「ある場面はなかなか結構だが、他の場面は全く気に入らない、」という感想を持ちました。翌2006年の再演で指揮をすることになりましたが、バイロイトでは演出を年々変えることが頻繁に行われ、同音楽祭の一つの特徴となっています。一例をあげると、パトリス・シェローが『ニーベルングの指環』で、装置をそっくり取り換えるという大幅な変更を行ったことがあります。それで、「自分からも意見を出してマルターラに影響を及ぼし、何らかの変化をもたらすことが可能ではないか?」と期待しました。ブランゲーネがからむある場面で、マルターラの演出通りに行うのは音楽的に無理だということを指摘したところ、マルターラは「考えてみよう、」と言ってその日のリハーサルを終えました。翌日マルターラはそれについては全くふれませんでしたが、3日目に衝突が起こりました。衝突の結果、マルターラはリハーサルを放り出して出て行ってしまい、戻ってきませんでした。
彼の職場放棄は、私にとって、結果的に決して良い方向には働きませんでした。演出について変えたい所があったのですが、彼がいないからと言って私がそれを変えることはできません。なぜならば、マルターラが去った後、リハーサル室には彼の演出助手が2名残り、この2名が責任を負わされることになるからです。演出を根本的に変えてしまうと、この2名のボスはマルターラですから、彼等はボスを裏切ることになってしまいます。それを私が2人に強制するわけにはいかないわけです。ですので、演出家との協力といえるようなことは、この場合、全く実現しませんでした。

ドイツ語圏におけるオペラ演出事情:

会場からの質問:ドイツ語圏で特に顕著な現象のようですが、物議をかもすオペラ演出家台頭の背景について、指揮者としてどのようにお考えかをお聞かせください。なぜドイツ語圏でこのような傾向があるのでしょうか?イタリアで舞台稽古の際に、ある著名指揮者が、演出家の指示に反する指示を合唱団に出したところ、合唱団が指揮者に従い、演出家の顔がまるつぶれになったことがあるそうです。

P.S.:まずイタリアの例ですが、これはリッカルド・ムーティのことですね。ムーティは単にこのオペラを指揮しただけでなく、劇場の監督でもあるという強い立場にいたので、それが可能だったのです。
ご指摘の傾向が、オーストリアを含めたドイツ語圏に多い原因の一つは、多くの演出家が演劇畑出身で、必ずしも音楽的素養があるとは限らないということにあると思います。とは言え、私は必ずしも、「演出家は楽譜が読めなければいけない、」と言っているのではありません。楽譜は読めなくても、音楽を尊重し、音楽に対する理解を持つことが必要なのです。
もう一つの要因は、東西ドイツが分断されていた当時、ルート・ベルクハウス、ハリー・クプファー、ゲッツ・フリードリッヒ等、多くの演出家が東ドイツから西ドイツへやってきたことにあります。音楽評論家を始めとする西ドイツのメディアは、「西ドイツで東ドイツ流の演出をすることが進歩的である、」との受け止め方をしました。
ドイツではメディアの力が強い。それには政治的な背景があります。劇場の監督・総支配人は必ずしも音楽やオペラの専門家ではありません。それらのポストは政治的な任命であり、選任権を持つ政治家は往々にしてメディアに弱いものです。メディアが何を言うかに非常に大きな影響を受けるので、そういった背景からもメディアの影響力が強大になっていると言えると思います。蛇足ですが、私は、クプファーは優秀な演出家だと思っています。
更に、ドイツとオーストリアの劇場は、運営の大部分を公的な助成金に依存しています。ですから、行政の影響力が強くなるということが言えます。そして、少なくとも比較的最近までは、公的な助成を主な財源としているので、集客性や、興行収入がどれ位になるかは二の次の問題とされていました。これが、自主的な財政的運営をしなければならないアメリカの劇場と大きく違うところです。アメリカの劇場で観客がそっぽを向く演出をすれば、即座に入りが悪くなり、収入減に直結するので、そのようなことはできません。
とは言え、昨今では、どこでも「節約、倹約、」と言われるので、その限りでは若干の変化が見られて来ています。また、観客の入りについては、行政に影響を与えるのは、個別の切符の売れ行きというよりも定期会員の予約のよしあしです。これが後退すると行政にも痛手なので、なんらかのリアクションにつながります。

指揮者が演出も担当することについて:

会場からの質問:経験豊富なマエストロですから、ご自身で演出されたいと思ったことはありませんか?ワーグナー自身、自分の作品を自ら演出してバイロイトで上演しました。20世紀に入ってからも、カラヤン等、自分で演出し、指揮をした指揮者がいます。オペラ経験の豊富なマエストロなら、他の演出家とは違った素晴らしい舞台が期待できるのではないかと思いますが。

P.S.:今おっしゃっていただいたことには前例もあり、私にも魅力的に響きますが、演出という仕事も、本来は色々と勉強して初めてできるようになるものであると私は考えています。これには私の個人的な背景も関係しています。私の家内と二人の娘は俳優です。娘の一人の夫も俳優で、もう一人の夫は演出家でもあります。そのような環境にいるため、演出は片手間にできることではない、また、やって良いことでもない、と私は考えています。私がそこまでやるのは大変なことですし、他の専門分野に足を踏み入れるのが、必ずしも正しいとは思いません。私が理想とするのは、経験と理解の豊富な演出家と共に、相互理解のもとに仕事を進めることです。
演出家との共同作業について具体的な例をあげると、ヴェルナー・ヘルツォークとはバイロイトで『ローエングリン』を一緒にやりましたが、非常に有意義な意見交換ができました。私が、「音楽がここではこうなっているので、それをきっかけとして、舞台上でも何か動きがほしい、」と言うことがありました。また、逆に彼の方から音楽について何か意見があれば、私としても十分にそれを受け止めて聞きました。同様に、ディーター・ドルンも、意見交換や協力に基づいて仕事を進めることのできる相手でした。特にワーグナーについて言うと、『ニュルンベルグのマイスタージンガー』では指揮も大仕事であり、高い山に登るようなものです。それに加えて、舞台上で何がどのように進行するかまでこと細かに指揮者が指示するのはどうでしょうか?カラヤンが照明を使ってやった前例があるとは言え、そこまでコントロールするのは不可能だと、私自身は思っています。

歌手との練習:

会場からの質問:オーケストラと練習を積み重ねることはよくなさると思いますが、作品を作り上げる段階で、歌手と一対一で話し合いながら進めることはあるのでしょうか?

P.S.:練習には色々なタイプがあり、歌手を含めた物には、ピアノに合わせてアンサンブルを磨いていくアンサンブル練習があります。それ以外にも、個別の歌手を相手に、特に新演出の場合や、その歌手にとって初役の場合、一対一でピアノ練習、パート練習を行います。私はそもそもコレペティトールから歌劇場の仕事をスタートしたので、その仕事をずっと続けてきた経験があり、必要に応じて今でもやることがあります。

歌手の育成:

久保:コレペティトールとしてオペラにかかわるようになったとのお話がありましたが、デボラ・ポラスキ、フィリップ・カン、ガブリエレ・シュナウト等、多くの一流歌手が、「シュナイダーさんには大変お世話になりました。現在の自分があるのはシュナイダーさんの助けがあったからです、」と言っています。彼等は、オーディションに推薦してもらったりして、色々な形でシュナイダーさんのお世話になっています。次に、若い歌手達がどのように育っていくかについて伺いたいと思います。

P.S.:若い歌手が育つ道筋として、まず音楽教育がありますが、私は直接教育の場にはおりませんので、学校教育についてはコメントできません。ただ、『セビリアの理髪師』や『愛の妙薬』のネモリーノを唄うような軽いタイプのテノールが、先生が変わった途端にドラマティックな役柄を振られ、結果的に良くない事になったという事例があることは聞いています。
歌手の成長過程では、活動の場が劇場に移っていきます。ここでは、各劇場の監督、歌の指導者の果たす役割が大です。彼等が慎重であれば良いのですが、往々にして、短時間の間に多くのことを歌手に要求しがちです。また、声が十分に成熟しないうちに、大きな重い役、特にワーグナー等の役を振ることがあると、往々にして不幸なことが起きます。とは言え、確かに周辺的な事情もありますが、最終的には歌手個人の問題です。各自が職業歌手として、自分が現時点で何ができるか、何をすべきでないか、ということを判断していくことが大切だと思います。

コンクール:

久保:若手の歌手のためには、ワーグナー協会が企画している国際ワーグナー歌唱コンクール等、多くのコンクールがありますが、それについてどのようにお考えですか?

P.S.:一般的に言うと、私はコンクールを余り評価していません。スポーツ競技のように数字で結果が出るものとは異なり、音楽、つまり芸術面を競うのにコンクールはふさわしいでしょうか?また、特に歌手の声に関して、ある声が有望か否かを決めるのは、最終的にはかなり好みの問題と言えるでしょう。はっきり客観的な物差しが得られない所で行われるコンクールには疑問を感じます。ただ、キャリアの初期段階にある歌手がコンクールで注目され、劇場から声がかかって契約を結ぶことがあることについては決して否定しません。しかしながら、それはあくまでも出発点の問題です。その後、契約を維持して更に伸びて行けるかが本当の勝負ですが、これは本人次第です。私は、コンクールの役割は、歌手の初期の段階に限定されると受け止めています。
ワーグナー協会のコンクールは、ドイツ風に言うと「Wagner Stimme(Wagner voice:ワーグナー向きの声)」を謳ったコンクールですが、これも余り感心しません。歌手にとって大切なのは、幅広いレパートリーを持つことです。「ワーグナー歌手」と呼ばれている人は、裏を返せばワーグナーしか唄えない、ワーグナーの役にしかフィットしないような結果になってしまいます。常に大声をあげて唄っていると言うことでかたまってしまうと、ヴェルディ等、他の作曲家の作品は唄えない、ということになってしまうわけです。真の大歌手の場合、たとえばビルギット・ニルソンがドンナ・アンナを唄うのを聞いたことがありますが、十分それにも対応できるような柔軟性を持っています。また、ブリュンヒルデ等、ワーグナー作品で見事な活躍をしているヒルデガルド・ベーレンスは、「私はワーグナー歌手と位置付けられてはいますが、『フィガロの結婚』の伯爵夫人等もキチンと唄えるようでありたいと思っています、」と語っています。私は、それが正しい判断だと考えています。

マエストロと音楽の最初の出会い:

会場からの質問:マエストロは、音楽との最初のコンタクトをどのようにお持ちになったのですか?

P.S.:両親が音楽にかかわっている家庭ではありませんでしたので、音楽との最初のコンタクトは両親を通じてではありませんでした。最初の体験はラジオによるもので、流れていたのは『蝶々夫人』でした。自分でもそのような音楽を口ずさむようになり、学校の先生から、「それならウィーン少年合唱団を受けてみなさい、」と言われ、入団しました。その後、特にオペラ、音楽劇に惹かれるようになって行きました。
『ローエングリン』との出会いは、観客としてではなく製作サイドから、つまり客席からではなく、出演者として、バックステージからの物でした。これは、ウィーン少年合唱団の団員が、オペラ公演に時々参加するためです。たとえば『トゥーランドット』の場合、小年達は舞台には出ず、幕の後ろで歌います。そういう形で、私の歌劇場とのかかわりがスタートしました。

マエストロ・シュナイダーとハインリヒ・ホルライザー:

久保:ここで、当協会の熱心な会員の方から前もって寄せられた質問をご紹介しましょう。「20数年間ワーグナー作品に触れてきていますが、私にとって最大のワーグナー指揮者は、シュナイダーさんと、昨年亡くなったホルライザーさんです。シュナイダーさんはインタビューで、お若い時にウィーン歌劇場でホルライザーさんの指揮を観察されたとおっしゃっています。シュナイダーさんがホルライザーさんから影響を受けたところ、共通点、相違点についてお話頂けますか?」

P.S.:ホルライザーとの縁は、私がウィーン少年合唱団の団員であった当時に始まります。つまり、ホルライザーがウィーン少年合唱団を指揮していた頃、宮廷のチャペルで行うミサに私が合唱団の一員として参加し、ホルライザーの指揮で唄ったことに始まります。その後、歌劇場の立見席から何度ホルライザーの指揮を見たことか。オペラを聴くということもありましたが、私が注目したのは指揮者の指揮ぶりでした。当時は、カール・ベームとカラヤンの時代でしたが、私の模範とするのはやはりホルライザーでした。ただ、後になって直接ホルライザーと言葉を交わしたことがあるかと言えば、それはありませんでした。
職業として指揮の道に入ることになり、将来のビジョンを描いた時には、ホルライザーと同じようなキャリアを歩んでいくのが私の夢でした。ですから、後になってウィーン・フィルを指揮した際に、ホルライザーのもとでも演奏したことのある年長のメンバーから、「あなたはホルライザーさんの真の後継者だ!」と言われたのは望外の喜びでした。
共通点について言えば、一つにはジャンルのこと、つまりドイツ・オペラが中心ということがあります。ホルライザーも、イタリア物の指揮はそれほどしなかったと思います。それから、指揮のスタイルとして、ホルライザーは非常に控え目な指揮者でした。晩年にはそれが更にエスカレートし、オーケストラのメンバーが、指揮者の指示を探り出すのに苦労したこともあったようです。これには年齢的なことが関係していたかもしれません。私自身も指揮の上ではやりすぎないようにしており、控え目という点では同じスタイルを持っています。相違点については自分ではわかりません。

バイロイト祝祭歌劇場の特殊性:

会場からの質問:バイロイト音楽祭の放送を聞くと、舞台の音とオーケストラの音が時々微妙にずれることがあります。それにどのように対処されておいでですか?

P.S.:ご指摘の点は、バイロイト祝祭劇場の特殊性、つまり、オーケストラ・ピットが楕円形の物でおおわれていることから発生する問題です。その結果、オーケストラの演奏は、まず客席ではなく舞台に反射します。そして、舞台装置がどのような物であるかによって大きな違いが出るのですが、音は装置に再反射されてから、ようやく観客席に届くという過程を取ります。それに対して、歌手は舞台から直接客席に向かって唄いますから、その間にどうしても、1秒の何分の一という差が生じることになります。それを計算に入れて、指揮者はオーケストラをやや先行させるという操作をする必要があります。
オーケストラはそのように演奏するのですが、放送の場合、オーケストラの音を録音するマイクはピットに置かれています。一方、歌手の声は舞台上のマイクが拾います。ということで、指揮者がオーケストラを先行させて演奏すると、放送・録音では、そこに微妙なズレが生じます。それを聞きとれる方は非常に良い耳を持っていらっしゃると思います。
特に合唱の場合、たとえば『さまよえるオランダ人』第3幕の『水夫の合唱』では、オーケストラ全員に舞台上の声が聞こえるわけではありません。聞こえる場所にいるオーケストラの人が合唱に合わせ、オーケストラもそれに揃えて一緒に演奏したとします。それを録音で聞くと、先程お話したような理由から揃った演奏に聞こえるかもしれませんが、観客席には音がずれて聞こえるという結果になります。そのため、コーラスも含めて、オーケストラは意識的に若干ずらすという演奏スタイルを取らざるを得ないのです。生と録音との違いも含めて、配慮が必要になるずれが発生するのがこの劇場の特殊性です。

マエストロ・シュナイダーの指揮芸術:

舩木:最後に私から、シュナイダーさんの指揮芸術そのものについてお聞きします。昨年の『トリスタンとイゾルデ』と一昨年の『ローエングリン』をバイロイトで拝見しましたが、祝祭全体の中で音楽的に最も説得力があったと思います。何が他と違うと思ったかと言うと、新しく聞こえる部分が沢山あるというか、全体が全く新しい。「これは、何か新しいことをなさっているのか?」と思ってスコアを調べてみると、スコアに書いてあることがただ鳴っていたのだと知って驚くことが多い。こうして見ますと、オーケストラにしても、他の指揮者の方々にしても、見逃しているケースが非常に多いのではないかと思います。ですから、私はマエストロにはこの道をこのまま進んで行って、良いワーグナー演奏を聞かせていただきたいという希望を持っています。

P.S.:大変ありがたいお言葉を頂戴して恐縮です。実は、今ご指摘いただいたような点は、私が自分でそうありたいと努力していることで、正にその点をついて下さったのは大変うれしいことです。私が力を入れているのは、なんと言っても楽譜をもっと一生懸命読み込むことです。そういう作業をすることによって、私自身にも今になって気がつく発見が多々あります。そのような意識を持っておりますので、観客の皆様の中に、そういう点に気がついてそれを認めてくださる方がいるというのは、大変心強いことです。
たとえば、『トリスタンとイゾルデ』の序曲の開始の部分で、「ああ、ここはこういう風な意味合いで書かれていたのか、」ということに、最近になって気が付きました。私はそれを演奏の面に出そうと思って実行したわけです。お断りしておきますが、これは決して、作品自体に外から何か付け加えようという意図での作業ではなく、作品の内部から、何がそこで意図されていたかに新たに気がつくということです。それを実際の演奏で行うには、オーケストラの理解と協力が必要になります。
ベルリンでやろうとした時には、オーケストラがそういう形での演奏を全くしてくれず、従来通りの演奏を変えようとしませんでした。しかしバイロイトで、更には最近ドレスデンでは、オーケストラがすぐその点に反応してくれ、そういった表現をすることができました。そのような事が実際にありますので、これから先も、作品それ自体の読み込みをもっと深めていくということが私の仕事のモットーとなって行くと思います。