日独交流150周年記念国際シンポジウム(バイエルン国立歌劇場来日記念)

「ワーグナー都市ミュンヘン-舞台芸術の今」

日時:2011 年 9 月 26 日(月) 15時~17時
場所:ドイツ文化会館ホール
総合司会・パネラー:池上純一(埼玉大学教授)
パネラー:ニコラウス・バッハラー(バイエルン国立歌劇場総裁)、山崎太郎(東京工業大学教授)
通訳:蔵原順子
主催:日本ワーグナー協会、東京ドイツ文化センター
協力:NBS日本舞台芸術振興会
後援:ドイツ連邦共和国大使館

本年は日独交流 150 周年の記念すべき年ですが、バイエルン国立歌劇場の来日を機に、日本ワーグナー協会と東京ドイツ文化センターの共催、NBS 日本舞台芸術振興会の協力、ドイツ連邦共和国大使館の後援により、国際シンポジウムが開催されました。連休明け雨天の月曜日、15 時スタートにも関わらず、前日に演目初日を迎えた同歌劇場「ローエングリン」の好演を受けて 100 名近くが来場し、盛会となりました。
ライムント・ヴェルデマン東京ドイツ文化会館ゲーテ・インスティトゥート所長/日本総括代表の開会の挨拶でスタートしたシンポジウムは、ワーグナーとミュンヘンの歴史的繋がり及びその背景、同地におけるワーグナー需要と上演の変遷について日本側パネラーが解説した後、バッハラー総裁に質問を投げかける形で進められ、熱のこもった論戦が繰り広げられました。以下がその報告です。

池上: 最初に山崎さんが基調講演を行い、ワーグナー都市ミュンヘンについてお話しされ、それに基づいて問題提議をされます。

基調講演

山崎: 今回のシンポジウムでは、「ワーグナーとミュンヘン」の良い面だけではなく、ネガティブな問題性のある面にも視野を及ぼしたいと思います。このテーマでまず浮かび上がってくるワーグナーとルートヴィヒ 2 世との関係も、ポジティブな側面だけとは言えません。ルートヴィヒはワーグナーを人生の危機から救って資金面等で様々な援助をし、そのおかげでワーグナーの後半生があるわけですが、ミュンヘンはワーグナーを救ったと同時に追放した都市でもあります。ワーグナーのミュンヘン滞在は2年以下と非常に短く、ジャーナリズムや宮廷の人々等の反感を買って追放されることになりましたが、その過程で、ルートヴィヒとの関係にも色々な行き違いが起こります。

ネガティブな側面の存在にもかかわらず、ミュンヘンがワーグナーの生涯に持つ意味は非常に大きいものがあります。生活の安定、生涯制作に打ち込めたことも勿論ですが、その他、上演不可能とされた「トリスタンとイゾルデ」や、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」等の初演がミュンヘンで行われました。中でも特筆すべきは、ワーグナーが指揮を弟子のハンス・フォン・ビューローにまかせて、自らはステージングの統括監督に専念したことです。演出が職業として確立されていなかった時代に、ワーグナーはステージングがいかに重要であるかを主張、実践し、演出家という役割を確立して見せました。また、演出の中での共同作業、そこで築いた人間関係が後のバイロイト音楽祭に生かされたという点で、非常に大きな意味があると思います。

バイロイトに実を結ぶ「祝祭」という構造が具体化、現実化したのもミュンヘン時代であり、これを後ろで支え、促したのがルートヴィヒ 2 世の熱意でした。ワーグナーが王の求めで書いた「ミュンヘンに設立すべきドイツ音楽学校について」と言う 50 ページを超える報告書があります。その中でワーグナーは、バイロイト祝祭劇場同様、見えないオーケストラピットを備えた劇場の設立を提唱し、同時に、模範的上演を行うために何が必要かを詳細に説いています。何よりも重要なのは人材の育成で、ドイツ語の明晰な発音と発声ができ、舞台上で歌えて演技もできる、才能と実力を兼ね備えた歌手がドイツにはいないので、その育成が重要である、と述べ、演奏家についても、技術に加えて、深い音楽的素養と古典的形式感を備えた音楽家の教育機関を提唱しました。

自作が上演できるだけでは不十分で、ワーグナーの主張の根底には、聴衆の啓蒙も含めた音楽界全体のあり方、システムその物を改革しなければならないという、文化政策やアートマネージメントを視野に入れた考えがありました。最重要事項である人材育成のためには、資金援助も含めた文化全体のシステム設計が必要と考え、一方、劇場そのものは無理に壮大なものを新築する必要はなく、当時ミュンヘンにあった展覧会会場に仮設小屋を作り、間に合わせても良いと言っています。これに対して、ルートヴィヒは後年城造りに打ち込んで行きますが、記念碑的な壮大なものを常に思い描いていた点でワーグナーと対照的で、これが二人が袂を分かつことになった本質的理由かもしれません。

当時ミュンヘンには王立音楽院(コンセルバトワール)がありましたが、ワーグナーは、「コンセルバトワールは古典の保存を意味する。ドイツには保存すべき古典様式さえ確立されていないので、このような施設は無意味である」と言っています。言葉へのこだわりにもワーグナーの根本的姿勢が表れています。ワーグナーの死後、ミュンヘンは輝かしいワーグナー上演の伝統を築きますが、この伝統も決して一方的に保守的なものと理解すべきではなく、改革への熱意を含めて理解すべきだと私は考えます。

この側面は、その後ミュンヘンがたどった歴史の所々に現れますが、その中で特に注目したいのは 19 世紀末から 20 世紀初頭の世紀転換期で、ミュンヘンにドイツの内外、ロシア等からも多くの若い芸術家が集まり、新しい物を創ろうという熱気がみなぎっていました。作家トーマス・マンは短編小説「神の剣」で「ミュンヘンは輝いていた」と表現し、町の表情を描写したくだりには、ノートゥングのモチーフを口笛で吹きながら街を闊歩する若者の一団が出てきます。小説の世界のみでなく、現実のミュンヘンでも、若い芸術家の熱気とワグネリズムの高まりは無縁でなく、ワーグナーの影響を受けた代表的芸術家にはカンディンスキーやクレーがいます。

改革への熱意という流れの中で、この20年間バイエルン国立歌劇場が取り組んできたワーグナー上演の試みに触れたいと思います。ニコラウス・レーンホフ演出による「ニーベルングの指環」、デービット・オールデンの「タンホイザー」、ペーター・コンヴィチュニーの「トリスタンとイゾルデ」、トーマス・ランゴホフの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」に代表される、ワーグナー演出の新しい波というべきものがミュンヘンで出てきます。バッハラー総裁も新しいワーグナー上演の路線を引き継いでいらっしゃると思いますが、3つの問題提議をして、話を終えたいと思います。

1.伝統と革新とは、互いにぶつかり合う、相容れないものというイメージがありますが、伝統の中にはワーグナー自身が抱いていた改革の情熱が含まれていると思います。それとは逆に、現在ミュンヘンで見られる複数の演出、ワーグナー上演の中にも、ワーグナー以来の伝統が受け継がれている部分があるのでしょうか。

2.新しい傾向の演出にはブーイングがつき物ですが、一方、賛同者もいるはずです。ミュンヘンの聴衆の反応はどんなものでしょう。また、新演出を理解するためには、往々にして、その作品に対する知識等、前提となるものが色々と必要になります。それらを提供して行くために、バイエルン国立歌劇場はどのような努力、試みをされているのでしょうか。

3.ミュンヘン以外にも、ワーグナー上演の伝統のある町、色々なワーグナー上演を行っている町は沢山あります。それらとミュンヘンの相違点、ミュンヘンのワーグナー伝統の特色、劇場側が色々な演出で打ち出そうとしている独自の方針、独自性はどのようなものでしょうか。

これらについては触れていただく前に、池上さんからもう少し根本的な質問をお願いしたいと思います。

池上:質問の前に少し補足させていただきます。ワーグナーが実際にミュンヘンにいた純然たるミュンヘン時代は、1864年5月から、ワーグナー非難の高まりを受けてルートヴィヒ2世がワーグナーにミュンヘン退去を命ずる1865年の12月6日までです。芸術そのものへの批判というよりは、祝祭劇場をミュンヘンに建てて「ニーベルングの指環」全4作品の上演を全面的に支援すると約束した王の肩入れぶりと、財政的支出に対する物です。その後もミュンヘンを間に挟んで、ワーグナーとルートヴィヒ2世との間には緊密な関係が結ばれます。手紙の数だけでも膨大で、その中で非常に親密な関係が進み、ワーグナーの創作にプラスになると同時に軋轢も起こってきます。「ラインの黄金」初演と「ワルキューレ」初演は、ルートヴィヒ2世による強行上演です。ワーグナーは4部作一挙上演を望みましたが、全体の完成まで待てず、自分だけのために上演してほしい、というルートヴィヒがワーグナーの反対を押し切り、単独でこの2作品を上演しました。上演のあり方についての両者の姿勢の違いが如実に現れていると言えます。

1872年4月24日にワーグナーはバイロイトに移ってバイロイト時代が始まり、祝祭劇場が作られ、第1回バイロイト音楽祭が開催されます。ですので、1864年から1872年までを広い意味で、ワーグナーのミュンヘン時代と呼べると思います。ワーグナーとミュンヘンとの関係は必ずしも相思相愛とは言えず、ルートヴィヒ2世との間の綱引きのそのちょうど中間にミュンヘンがあったということになりますが、そのミュンヘンが、ワーグナー都市ミュンヘンとなっていく。これには、ヘルマン・レーヴィやフェリックス・モットル等、ミュンヘンで活躍し、バイロイトでワーグナーの事業に協力した音楽家たちの活動もあったと思いますが、ワーグナーとミュンヘンの錯綜した関係を考える際に考慮すべきなのは、ミュンヘンという町の持つ性格です。

ワーグナーとミュンヘン的メンタリティー

池上:ミュンヘンは19世紀に急速に近代都市へと成長し、その急速さゆえに、広く外来者を受け入れる開放的な文化的土壌があったということ。また、バイエルンという非常に豊かな農村的土着的風土を背景に控え、それが都市の中に浸潤しているため、ミュンヘンは住んでいて心地がよい。ドイツ語でGemütlichkeitと言う言葉で表現される快適さが、ワーグナー都市ミュンヘンを考える時に大きな要素ではないかと思います。オーストリア出身で現在ミュンヘンにお住まいになり、バイエルン国立歌劇場を率いていらっしゃるバッハラーさんに、ワーグナーを引き受けたその背後にあるミュンヘン的バイエルン的メンタリティーについて少しお話いただけたらと思います。

バッハラー総裁:まず、今回のテーマ「ワーグナー都市ミュンヘン」について少しお話します。「ワーグナー都市ミュンヘン」は決して本質的なことを意味しているのではない、と私は思います。ご説明のあった歴史的観点はさておき、大切なのはその町にある劇場で良い上演が行われているか否か、これに尽きると私は考えています。確かに、ミュンヘンはすばらしいワーグナー上演を繰り広げてきたがゆえにワーグナー都市であったと言うことはできます。でも同様に、優れたモーツァルト上演を続けてきた町がモーツァルト都市だとも言えますし、ヴェルディの素晴らしい上演が沢山行われた町をヴェルディ都市と呼ぶこともできるわけです。そういう意味で言えば、ミュンヘンは長い間、グンター・レーナーが居た時代には特に、モーツァルト都市と呼ばれるにふさわしい町でもあったでしょう。また、バイロイトが理想的なワーグナー都市であった時期もあったと思います。本質的なことは、いかに優れた上演が今その時にその町で行われているか、ということだと私は思います。

では、ワーグナーとミュンヘンの関係ですが、実際にワーグナーがミュンヘンに住んでいたのは2年という非常に短い期間に過ぎません。この2年をもってワーグナー都市ミュンヘンということができるのか、それは滞在の長短によって決まるのではなく、その期間がその人にどう影響したのか、その人がどういう状況にあったかに関わってくると思います。そういう意味で、ミュンヘンは間違いなくワーグナーに非常に大きな影響を与えました。刺激を沢山受けたのは、特に滞在2年目のことで、あらゆる形で、そして色々な人達との出会いによって、ミュンヘンがワーグナーに多くの刺激を与えたことは間違いありません。ですから、単純にワーグナーの足跡をたどって、たった2年しかいなかったと、その長さだけに注目することは間違いだと私は思います。その中でルートヴィヒ2世が果たした役割は本当に大きなものです。芸術家に必要なのは、いつどの時点で、何がその芸術家に提供されるかということです。勿論、その人の持っている才能が大前提ですが、その才能をいかすために支援してくれる人が不可欠です。ルートヴィヒ2世は、言ってみれば限界までワーグナーを支援したわけです。

先程から、ミュンヘンはワーグナーを追放したと何度も言われていて、ミュンヘンがひどい町だと思われかねませんが、ミュンヘンを少し弁護させてください。ワーグナーが追放されるにはそれ相応の理由がありました。ワーグナーは自己中心的で、極端に自尊心が強い上、利用できるものは何でも利用してバイエルンという国を徹底的に搾取し、その結果、人々が飢えるほどになりました。そんな中、宮廷の人々や市民の不満が高まり、ワーグナーを結果的に追放するに至ったのは十分理解できることではないでしょうか。

だからといって、それはワーグナーの天才、才能とは無関係です。彼が残した創作のすばらしさとは切り離して考えるべきでしょう。そしてバイロイト音楽祭、祝祭劇場のアイディアの源泉が生まれたのもミュンヘン時代です。当時は、イーゼル川のほとりに一種のワーグナーハウスを建てるというアイディアもありました。ワーグナーは後年、特に50歳以降、様々なことを成し遂げましたが、そうしたすばらしい成果につながる源となったのがミュンヘンだったことは間違いありません。ミュンヘン時代の状況からすべてが始まったわけです。このようなサポートをしてくれる支援者、パトロン的存在が芸術家に及ぼす影響というのは、何もルートヴィヒとワーグナーの関係に限ったことではなく、フランスに目を転じれば、ルイ14世とモリエールの関係にも同様なことが言えます。ミュンヘンは確かに彼を追放しはしましたが、ワーグナーの生活を最後まで支えたのはバイエルンの年金だったです。

GEMÜTLICHKEIT (心地よさ)

バッハラー総裁:「Gemütlighkeit(居心地良さ)」がワーグナーにどんな影響を与えたのかというご質問にお答えしましょう。ミュンヘンと言えばオクトーバーフェストが有名ですが、その会場でもGemütlichkeitが見受けられます。Gemütlighkeitにも二つの観点があります。一つはバイエルンの立地条件で、イタリア、地中海文化とのインターフェースのような所だと思います。カトリックが非常に強く、これはプロテスタントのワーグナーにとり、間違いなくなんらかの意味があったでしょう。それから、ワーグナーを歌うにあたっては、実はイタリア物をどれだけ身につけているかが非常に重要なのだ、と沢山の歌手の方達がおっしゃいます。ワーグナーの中には、ベルカント的といっても過言でない位、カンタービレの要素が多分にあります。それは、ミュンヘンという町の持つ風土や文化と切り離せないもので、カンタービレ的要素は、ハンブルクやウィーンよりもミュンヘンの方が多く抱えていると私は思います。

もう一つの観点ですが、ミュンヘンにいらしていただくとそこかしこでGemütlichkeitが見受けられ、ミュンヘン子はことあるごとにレストランのテラスでビールなどを飲みながらおしゃべりに興じます。行きつけのビヤホールには各自定位置があって、そこに集うわけです。ミュンヘンの人々の人生観を表しているように思えますが、この風潮にはマイナス面もあります。そうやって集うことはコミュニケーションの一つの形で、社交の場となっています。また、ミュンヘンでは、そこかしこでマイスタージンガーの登場人物に出会います。それくらい、ミュンヘンのビヤホールというのは、連綿と続くミュンヘンの歴史の中で変わらないGemütlichkeitを持ち続けてきたのではないでしょうか。

感情面、エモーショナルなものがセンチメンタリズムに繋がるほどまでに拡大して行くには、ミュンヘンの持っている風土や特徴が深く関わっていると私は思います。たとえワーグナーがミュンヘンに滞在した期間が非常に短かったとしても、彼の性格とか人物像にミュンヘンの風土的なもの、メンタリティーが影響を及ぼしたと私は思いますし、ワーグナーの作品を紐解いていくと、そういった発見をそこかしこで出来ます。

ミュンヘン市の歴史的変遷と、オペラ上演環境の変化

池上:ミュンヘンの開放的で心和むイメージは今でもあると思います。第二次世界大戦の荒廃後に、ドイツの新聞社が、今住みたい町は、というアンケートをとりましたが、ミュンヘンが他を引き離してトップの座に就きました。それと、ミュンヘン、バイエルンはカトリックの土地柄であり、そこにプロテスタントのワーグナーが入っていったのも軋轢の原因ではないかと思われがちですが、19世紀初頭に教会領の世俗化が行われた後、バイエルンは新しい国造りのために、カトリック、プロテスタントの別を問わず、人材を外から招いたということです。因みにルートヴィヒ2世自身は後に、普仏戦争後にビスマルクが行ったローマ教皇庁との戦いの先頭に立ってカトリック原理主義に反対した立場なので、宗教的にもそういう点では寛容な風土があったのでしょう。

こうした文化的風土に加えて、文化の庇護者として、当主ヴィッテルスバッハ家が果たした役割は非常に大きいと思います。そうした中で色々な人材が集まり、輝けるミュンヘンが造られていったのが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのルイトポルト摂政時代と呼ばれる時代でした。一点あげますと、カンディンスキーは絵画の世界での改革で行き着いた最初の抽象画を「コンポズィスィオン」と命名しましたが、色と響きの共感覚的なこのイメージをワーグナーの「ローエングリン」から得たと明言しています。

しかし、ワーグナー都市ミュンヘンには別の側面があります。1918年のドイツ帝国崩壊以降、一旦ミュンヘンに樹立された革命政権が倒れた後、ミュンヘンの空気は一変し、寛容で自由、外に向かって開かれていたミュンヘンが、反動的で非寛容な空気に包まれます。そこで多くの作家や画家や舞台人、ジャーナリスト達が他へ、特に成長著しいベルリンへ逃れます。そうした中で、一種の伝統の硬直化とも言うべき動きが出てきます。この両大戦間の時期に、ヨーロッパの各都市で様々なワーグナー上演の改革の試み、新しい舞台芸術への試みがなされましたが、ミュンヘンはむしろ守旧的姿勢に終始したといっても過言ではありません。

その最たる例が、大のワグネリアンだったトーマス・マンをめぐるスキャンダルでしょう。マンは、ナチスが政権をとった1933年にミュンヘン大学講堂で「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」という講演を行い、「ワーグナーにおいては、神話と無意識の心理学が緊密に結びついている。その時の神話というのは単にゲルマン神話だけではなくて、もっと普遍的で根源的で反ヨーロッパ的な人間の本質に通じている。従ってその中には、進歩と救済への道筋と共に、反動的に過去を礼賛する暗黒の傾向も含まれている。その民族主義的身振りとデマゴキー的側面に引き回されてはいけない」と警告しています。

しかし、彼が講演を終えて国外へ旅立った後、再選挙で圧倒的勝利をおさめたヒットラーは、総統にすべての政治権力を集中させる全権委任法を成立させます。これを受けて、1936年4月、ミュンヘンの新聞に、バイエルンの文部大臣、国立劇場総監督、音楽アカデミー総裁、リヒャルト・シュトラウス、クナッパーツブッシュといった錚々たるメンバーの連名で、マンの講演に反論する「リヒャルト・ワーグナー都市ミュンヘンの抗議」という声明が出ます。身の危機を感じたマンは帰国を断念し、2度とドイツには戻りませんでした。

ルートヴィヒ2世から20世紀初頭までのルイトポルト時代のミュンヘンが「開かれたgemütlichなミュンヘン」だったなら、両大戦間のミュンヘンは「ワーグナー受容の伝統を守りながらも、閉ざされた文化空間」と化したと言えるでしょう。しかし、これは単にミュンヘンのみの問題ではなく、ワーグナーその物が本質的にはらんでいる二面性に通じるものです。

伝統と革新、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」と「ローエングリン」

池上:次に伝統と革新の関係をとりあげますが、その際に、ワーグナーの二面性も考慮する必要があると思います。そこで、こうした二面性が非常に顕著な「ニュルンベンルグのマイスタージンガー」と「ローエングリン」の 2 作品を中心に、現代にまでつながる音楽舞台芸術のありようについて議論していきたいと思います。いずれも、閉ざされたワーグナー像と開かれたワーグナー理解、伝統と革新、反動と進歩という両極の間を大きく揺れ動く可能性を秘めた作品です。

「ニュルンベルグのマイスタージンガー」はミュンヘン時代に作曲され、1868年にミュンヘンで初演されました。ワーグナー作品初演としては珍しく大成功を収め、舞台が同じバイエルンの古都ニュルンベルグということもあり、正しくミュンヘンの代名詞と言っても良いワーグナー作品です。バイロイトに対抗して、バイロイト祝祭劇場の構造を取り入れてミュンヘンに造られたプリンツレゲンデン劇場では、1901年の柿落としにこの作品が上演されています。また、1875年に始まり、第1次世界大戦後再開されたミュンヘン・オペラ・フェスティバル(Münchener Opernfestspiele)でも近年まで、この作品が最終日を飾る演目となっていたことからも、ワーグナー都市ミュンヘンがこの作品を特別な作品と位置づけているように思えます。

「ローエングリン」はワーグナーのドレスデン時代最後の作品です。そこには神話的要素と共に、1849 年のドレスデン革命に参加したワーグナーの、純粋に人間的なものを回復しようという政治的ユートピアも書き込まれています。ルートヴィヒ2世がワーグナーに心酔するきっかけとなった作品であり、王はことあるごとに自分をこの白鳥の騎士になぞらえ、活人劇を演じさせたりもしました。もう一人これに魅せられた人物がヒットラーです。1936 年にベルリン・オリンピックと一体となる形で開催されたバイロイト音楽祭では「ローエングリン」がメインの演目となり、ヒットラー自身もこの作品に出てくるブラバントの守護者、Führerならぬ総統として、救済者のごとく1930年代のドイツに現れた、という点で、ここには神話と政治、進歩と反動といった二律背反が内包していると言えるでしょう。

バッハラーさんに、ミュンヘンにとって「マイスタージンガー」が持っている意味について、同作品が今年のミュンヘン・オペラ・フェスティバル最終日に上演されなかった事情とお考えも含めて伺いたいと思います。

バッハラー総裁:今のご質問にお答えする前に、二つ申し上げたいと思います。まず、ヴィッテルスバッハ家の果たした役割について非常に好意的な言い方をされましたが、その背景には大変政治的な意図があったことを忘れてはなりません。それはバイエルンの今日の状況にまで非常に大きな役割を果たしています。ヴィッテルスバッハ家はその国の大きさと国が持つ意味ということを徹底的に考え抜いた結果、マックスヨーゼフの時代に非常に賢明に立ち回って、文化とか芸術を通じて後のバイエルン王国の存在感を増すという手法に打って出ました。それが今日まで続いていて、ミュンヘンは、まるで一共和国の首都であるかのような意味づけを与えられてしかるべき町となっています。それは同家が、政治的な意図を持って文化や芸術をせっせと支援したからに他なりません。

もう一点、Gemütlichkeitにはマイナス面もあるということを改めて強調したいと思います。特にオーストリアとかバイエルンにそういったマイナスの影響が直接出ていて、1930年代、その後にそれが顕著に現れていると思います。人々が繋がりを求めてお互いに居心地の良い空間を作るということは、一見とてもプラスに聞こえます。でもそれは、その中に入らない人達を排除するということでもあります。繋がりを求めるということは、一方で排除につながるということを忘れてはならず、それが社会に対する圧力にもなり得るわけです。作品にそれが良く表れているのが「ローエングリン」だと思います。

エルザは常に自分の幸せを夢見、なんとか幸せを作り上げたいと思っている。幸せを作り上げたいというのは一つの国を作り上げたいということでもありますが、それは常にブラバント人達によって、色々な形で阻止されてしまいます。オリンピックの時にヒットラーが自身をブラバントの領主になぞらえたという説がありますが、本当はローエングリンになりたかったのではないかと私は思います。このGemütlichkeitの社会に於ける役割と影響、或いは、それが圧力にもなり得るということを忘れてはいけません。

私は、「マイスタージンガー」がミュンヘンという町に特にふさわしい作品だとは思いません。他のドイツの町よりもミュンヘンらしいとか、ミュンヘンにふさわしい作品だとは思いません。歴史的なこともあるでしょうし、登場人物のタイプがミュンヘンらしいと言われるのかもしれませんが、必ずしもそうは思いません。或いは、集団としてどう行動するかとか、集団、マスとしての現象が関わっているのかとも思いますが、それは必ずしもミュンヘンに限ったことではないと思います。2-3 日前に日本で相撲を見る機会があったのですが、そこでも一つの空間の中で、集団、マスの中で感情が湧きあがり、非常に高揚していく様を体験しました。繰り返しになりますが、重要なのは、「マイスタージンガー」がどこで演出され、どこで上演されるかではなくて、それがいかに優れた演出で、優れた歌手によって上演されるかということです。ただ、マドリッドよりもオーストリアとかドイツの町で上演された方がより理解されるということは、確かにあるかもしれません。

それから、ミュンヘン・オペラ・フェスティバルで最終日を飾るのが「マイスタージンガー」であったという、比較的長い伝統は確かに存在しました。私はこれを断ち切ったわけですが、伝統はどこかで断ち切らなければいけないと思っています。いつかまた元に戻って、最後に締めくくりとして「マイスタージンガー」が上演されるようになるかもしれませんが、やはり生き生きとした生きた上演を届けることがとても大切だと思うので、そうした伝統には固執しません。グスタフ・マーラーが言ったように、「伝統というのはある意味でだらしなさの表れでもある」ということだと思います。ワーグナーも、「一つの上演が終わったら、舞台装置も丸ごと燃やしてしまえばよい」と言っています。そのように新しい物、新鮮な物、生き生きとした物を届け続けることこそが大事だと思います。

ワーグナーの両義性

山崎:「マイスタージンガー」にふれられたので付け加えたいのは、ワーグナーの両義性の問題です。たとえばGemütlichkeitが排他性に結びついている、という事や、伝統と革新というテーマをめぐる両義性、これもワーグナーの作品自体の中に描かれていると思います。一例として「マイスタージンガー」では、gemütlichな世界だけに閉じこもって外部の物を排除するようではその社会は存続していかず、新しい血を入れなければいけない。そして、伝統の型をただ守り続けるだけでは芸術も存続していかないということが描かれています。「マイスタージンガー」に描かれた時代は 16 世紀のニュルンベルク、芸術の栄えた黄金時代と言われていますが、実際には、かつての黄金時代から受け継がれたものが先細りになって末期症状を呈している時代とも解釈できます。それは何かというと、マイスタージンガーの芸術が全く新しい物ではなくて、貴族達の中世のミンネザング(Minnesang)の芸術を受け継いでいるということです。ミンネザングの芸術をただ受け継いでいるだけではなくて、これを新たな民衆的な形にしてよみがえらせようとした、という良い側面がある一方で、よみがえらせようとしたこの芸術も、何十年、何百年と続いていくうちに形式主義に陥り、元の生命を失いつつあるということがこの作品の中で描かれています。その意味で、バッハラーさんが伝統と革新の関係についておっしゃったことと、ミュンヘンの「マイスタージンガー」上演に対して下した英断は、作品そのものと密接な関係があると私は思います。

バッハラー総裁:そうですね。「マイスタージンガー」についてもう一つ言っておきたいことですが、「マイスタージンガー」の本質は、ベックメッサーとシュトルツィングという二人を対比させてみた場合、芸術の本質は決して教授法にあるのではない、ということでしょう。学校とか、どういう形で学ぶかは基礎にはなるかもしれませんが、結局はその才能、天分が大事なのだ、芸術的なアイディアをどれだけ持っているかが重要だということが、「マイスタージンガー」のメッセージだと思います。どんな学派、流派で勉強したか、どんな伝統を受け継いだか、どういう風に韻を踏んで歌を正しく歌えば良いかを勉強した人よりも、才能、天分があれば、その天才の前にすべてが翳んでしまうこと、その時代のモダンなものを持ち込んだ方が芸術としては優れているのだということを、この作品は言っています。それは音楽の世界に限ったことではなく、改革をしたといわれる人は常に、それまでの伝統を打ち破るようなことをした人です。ピカソは自分の作品でそれまでの絵画の伝統をひっくり返しましたし、それこそが「マイスタージンガー」の一番根底にあるテーマではないかと思います。まさにワーグナー自身が要求したことでもあります。もちろんワーグナーは自分の中にも矛盾を抱えた人物で、舞台、作品に関しては革命的なことを要求しましたが、ワーグナー個人の人生を見ると、むしろ旧来の価値観をとても重要視し、価値観に振り回されていたような人でもあります。

レジーテアター(演出主体の舞台上演)

池上:次に、伝統と革新に関連して、演出に話を向けたいと思います。ワーグナー自身が、19世紀に初めて現れた演出家と言っても過言ではないでしょう。ましてや、作曲家本人が舞台の上で演出を行うということは当時ほとんどなく、演出が新たな分野として確立して行くのはワーグナーに始まったと言っても過言でないと思います。先程の革新ということから言いますと、現在広く行われているレジーテアター(Regietheatre)という演出優先の舞台について、バッハラーさんはこれをワーグナー作品に限って見た場合、どういう風にお考えかを伺いたいと思います。

バッハラー総裁:レジーテアター、この言葉は非常に不幸で、むしろ、意味のない言葉だと私は思います。本来レジーテアターというのは別のことを意味しているのに、今では誤った使い方をされていると思います。そもそも、レジー(演出)のない、舞台に関するビジョンを持たないテアターなど存在するでしょうか。オペラと音楽が切っても切り離せないものであるように、テアターとレジー、劇場と演出は切っても切り離せないものだと私は考えています。それからもう一点反論したいと思います。今日的な意味で、確かにワーグナーと共に演出が始まったと言えなくもありませんが、実際には演出は以前から行われていました。モーツァルトは台本作家のシカネーダーと共に、舞台に載せた時にどうなるかを常に考えていましたし、ヴェルディなどは、常に劇場と舞台のことしか考えていなかったと言っても過言ではないと思います。ただ、19世紀末から20世紀にかけて演出家という職業が出現し、確立された、そして職業としてのクオリティーを持つに至った事は間違いないと思います。

これは指揮者も同じですよね。指揮者と比較するとわかりやすいと思いますが、指揮者、つまりリーダーとしての役割を、指揮者という職業が登場する以前も誰かが担っていたわけです。第一バイオリン奏者であったり、作曲家自身であったり、そのグループを率いる人というのは常にいた。ただ、指揮者という職業として確立されるまでには時間がかかったということです。

同じことが演出家についても言えます。今日私達がレジーテアターという話をする時に、本当はクオリティーに注目すべきなのに、他の部分に余りにも焦点が当たっていると思います。劇場、舞台、オペラは、常にブルジョアの芸術でした。ブルジョアジーというのは、安定とか維持すること、何物にも脅かされないことを好み、変化に対する不安を代弁しています。不安をもたらす要素を徹底的に排除するのがブルジョアジーです。音楽に限らず、あらゆる芸術のジャンルにおいて革新を試みると、常に社会、或いは、それまでの芸術を受容してきた人々とぶつかります。

レジーテアターについて議論する時に、私達はクオリティーのことを忘れがちです。舞台に載せるもの、その際の解釈は常に新しい物でなければいけないと私は考えます。大事なのは、新しく舞台にのせて提供する解釈が、その作品本来のレベルに本当にふさわしいものであるか、作品にふさわしいクオリティーを持っているかということです。私達が今ここでゲーテの言葉を口にしたら、それだって既に新しい解釈で、当時の解釈ではあり得ないわけです。そういうことを忘れて、質を議論しなければいけないのに、常に不安という側面から演出を、あるいはそのコンセプトを取り上げることが問題だと私は思います。

最近あるディスカッションに参加した時に、これからはレジーテアターと一緒にディリゲンテンテアター(指揮者主体の舞台上演)という言葉を是非使ってほしいと要求しました。演出のあり方が変化したのと同様に、音楽的解釈も時代によって違うと思うからです。けれども、音楽的な解釈について批判したり不平を言うためには相当な音楽的知識が必要になります。それに比べて、演出は舞台の上で展開している視覚的な物なのでわかりやすい。あそこがこうだとか、これが気に入らないとか言いやすい。だからこそ、演出は常に槍玉にあがってしまうのだと思います。

けれども、ティーレマンによる「影のない女」と、カール・ベームによるそれでは、コンヴィチュニーによる演出とオットー・シェンクによる演出と同じ位の違いがあると思います。でもそれは話題にならない。解釈というのは、演出家や指揮者等が提示する一つの案であって、常にリスクを孕んでいる物だと私は思います。それは音楽作品に限ったことではなく、すべての芸術作品が同じでしょう。画家がある作品を発表しても、それが必ずしも成功するとは限らない。そもそも、その作品を発表するまでに何枚ものキャンバスを無駄にしているかもしれない。そういうリスクを孕んでいない芸術作品など、あってはならないのです。すべての上演が必ず成功すると最初から約束したのでは、ただのサービス業に過ぎません。サーカスとかアイスショーのような物であれば、あらかじめ成功を予測できるかもしれませんが、それは単なる芸術的行為に過ぎず、作品が本来持っている本質の部分にまで迫ることは決してないと思います。

演出の質の判断基準と、観客啓蒙について

山崎:今のお話を受けて、二つ質問させていただきたいと思います。まず、上演、演出の質こそが問題にされるべきとのご指摘には全く同感ですが、質の良し悪しの判断基準はどこにあるか、バッハラーさんは何を基準にこのプロダクションは良い、ダメだということを判断されるのでしょうか。次に、新しい物は常に社会とぶつかるリスクを背負っている、という点ですが、不安を抱いたり、理解できないという観客サイドと、演出を橋渡しする手立てはあり得るのでしょうか。劇場側の努力、バッハラーさんの方針をお聞かせ下さい。

バッハラー総裁:何をもってその上演、プロダクションが優れているか否か、それは一元的な判断ができるものではありません。色々な要素が積み重なって、集合として判断できるのだと思います。多方面にどんな影響を及ぼすのかということが大切です。観客の中に何を呼び起こすのか、専門家の中に何を呼び覚ますのか、或いは、アーティストがどう反応して何を訴えるのか、そういった物が集まって初めて判断できるのだと思います。でも結局のところ、最後の最後には魔法のような瞬間があって、それが良いものか否かは必ずわかるものなのです。

二つ目のご質問ですが、基本的には、観客の不安を拭い去ることはできないと私は思います。舞台上で行われている芸術的な営みは、何らかの形で人々の間に浸透していくものなのです。人によって受け止め方も様々ですし、たとえどんなにクオリティーの高いものであっても、拒否されることはあり得ます。でも、良い物は必ず浸透して行き、人々に受け入れられます。それは、教えれば受け入れてもらえると言う物ではないと思います。舞台というのは体験だから、その人に体験してもらわないと始まらないからです。歴史を振り返ってみても、舞台の上演史を振り返ってみても、良い物は結局のところ、短期的に見ても長い目で見てもやはり浸透している。成功して浸透し、良い物として受け入れられる物なのです。中には時代に合っていなかったというケースで、長い間成果が認められなかったという例も時折あります。時代に先んじていたと言うケースはあるし、それはどんなに説明しても、その時には浸透することができなかったのだと思います。

次に観客と演出の橋渡しについてですが、確かに劇場としては色々なシステムを持っており、プレトークや講演会、各種印刷物を通じて情報を発信しています。でも、そのような手段を通じて核心の部分が観客に届くことは決してありません。やはり、その作品、舞台上での出来事を受け止めるか否かは、客席にいる人と舞台の間のコミュニケーションにかかっているわけです。そこで人々の心を打つか、その人に届くか、ということが大事で、結局のところそれしかない、と私は思います。劇場での判断も十人十色ですよね。マックス・ラインハルトの言葉がこの状況を非常に適切に説明しています。「ある作品が上演されていたならば、そこに座っている百人は、百人が夫々違うものを見ている。」それは、各自が自分の人生や性格等をベースにしてその作品を見ているからです。私は感動するけれども、隣にいる人は全く違う人生を送っているから感動しない、その人の心の琴線には触れないかもしれません。そういう舞台の上と観客との間のコミュニケーションが、最終的には判断に繋がるのだと思います。

一つ付け加えますが、長期的には、才能が埋もれるということは決してないと私は思います。何年もの間省みられない才能はあるかもしれませんが、必ず日の目を見る日が来ると信じていますし、同様に、ずっと埋もれたままの優れた演出もないと思います。

祝祭とレパートリー劇場、ミュンヘンの革新の特徴

池上:最後に二つご質問させていただきます。一つは、バイエルン国立歌劇場の総裁に質問するのは失礼かもしれませんが、ワーグナーは、自分の作品はレパートリー劇場では上演できない物だと言っています。一回限りの祝祭という理念を打ち出していて、この理念の上にバイロイト祝祭があるわけです。そういう考え方と、レパートリー劇場で様々な演目の中にワーグナーも取り入れて上演することをどうお考えになるのか、また、祝祭という理念についてのお考えを伺いたいと思います。

最後に、ミュンヘンにはミュンヘンの、ウィーンにはウィーンの革新の道があるとすれば、ミュンヘンのワーグナー上演の特徴についてお話いただきたいと思います。

バッハラー総裁:ワーグナーはレパートリー劇場には否定的で、祝祭だけで良いと言う理念を持っていた、それだからこそバイロイトができたわけです。でも、作品というのは例外なく、作り終わったその時点からつくり手を離れて独自の生命を持ち、独自の道のりを歩むようになります。その作品がどういう道を辿るかは、その後の時代、世界が決めるべきものです。ですから、私達が作品をレパートリーとして抱えていて、レパートリー劇場の中で上演していくのは当然の成り行きだと考えています。

バイロイトではワーグナーの作品しか上演されませんが、私はそれを残念だと思うし、特に今のバイロイトは極めて残念な状況にあると言わざるを得ません。作品の運命を決めるのは時代であって、世の中なのです。それをどう扱うかは非常に難しい問題ですが、私達にとっても大きな挑戦課題であり、同時に大いに胸のおどることだと思っています。劇場というのは一つの運営組織で会社の様な物ですから、同じことを繰り返して行くとルーティンに陥ったり、硬直化してしまったりすることがあります。だからこそ、常に挑戦し続けなければならないと私は思います。特に「マイスタージンガー」とか「ニーベルングの指環」のような作品の場合、どのような新しい取り組みも、すべてが挑戦に他なりません。運営面から見れば決して容易なことではなく、むしろ運営の妨げになりかねないことですが、やはり挑戦は正しいこと、すべきことだと私は思っています。何をどうすべきか、何が新しくできるかを常に問いかけるのが我々の使命だと思います。ワーグナーの考え方はルートヴィヒ2世の考え方と全く相容れませんでした。ワーグナー作品は、色々な場所で、色々な劇場で上演されてしかるべきだと思います。規模の小さい劇場でも、そのもてる可能性をもってワーグナー作品をぜひ上演してほしいと思っています。

二つ目の、ミュンヘンの革新、ミュンヘンを特徴付ける革新はあるのかというご質問ですが、それはミュンヘンという町が持っている特殊性ではないと思います。むしろ、どの町であっても劇場単位で判断すべきでしょう。その劇場が革新的な路線を追い、色々な試みを行う劇場であれば、ミュンヘンは他の劇場と変わらないと思います。それぞれ別の可能性、別の方法で革新的なことに取り組んでいれば、それは素晴しいことで、国とか町による違いはないと思います。劇場同士を比較してみると、確かにそこには大きな違いがありますが。

重要なのは、劇場、舞台は、人が作る物で、人が抱え、支えていると言う事です。だからこそ、やる人がどういう気持ちを持っているのか、誰がやっているのか、やりたい人がいるか、それこそが革新を可能とする最大の要素だと思っています。でも、ある劇場が明日にはだらけてしまうとか、硬直化してしまう、革新の力がなくなってしまうのは、十分起こり得ることです。大事なのは、舞台は人が作るのだということ、それに尽きます。

最後に締めくくりとして、今日のワーグナーの状況に関する最近のエピソードをお話しましょう。つい先だってバイロイトで「ローエングリン」を演出した演出家に対して、「今バイロイトにどんな問題があるとお考えですか」という質問がされました。それに対してその人は、「女性達が相続したのが問題だ。劇場というのは農場ではない。毎日新たに発明をしなければいけないのだ」と言い放ちました。大事なのはどの劇場か、どの町の劇場かということではなくて、今この瞬間に、その劇場で何が行われているかだと思います。

池上:具体的な作品にまで立ちいってもっと話を展開したいのですが、時間がまいりましたので、このシンポジウムはここまでということにさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。最後に、日本ワーグナー協会理事長の三宅幸夫さんから閉会のご挨拶をいただきたいと思います。

三宅理事長:今日は平日の午後にもかかわらず、これだけ多くの方に参加していただき、ありがとうございました。日本ワーグナー協会は事業の一本の柱として、海外との人流、人的交流というのを掲げております。今日はそれがまた一つ実現したということで、本当にありがたく思っております。パネラーのお三人と蔵原さん、ありがとうございました。

(文責:堀内博美)